くれよんのとうろんかい 第二題 世の中の理不尽さについて ぼきっ 右手に握った黄緑色のクレヨンが、鈍い音をたてて折れた。 綾は不思議そうな瞳でそれを見つめると、おれちゃった、と小さく呟いた。 きっとママはこわいかおしておこるんだ。 「くれよんをおっちゃだめでしょ!」って。 「・・・黄緑がいないな。」 幼稚園の通園カバンのなかでがたがたと揺れながら、白が辺りを見回して言った。 「黄緑、折れちゃったらしいよ?」と黄。 一番近くで黄緑が折れた瞬間を目撃した緑が、黄に補足する。 「アヤちゃんが草を塗ってたときに、力の入れ方を誤っちゃったみたいで。真ん中で二つに折れたんだよ。」 綾はお絵かきの時間がとても好きだった。今日は、絵本のなかの一幕を想像して楽しく描いていたようだ。 「でもその後は見てないし、知らないよ。」 「んじゃあ黄緑はどこいったんだ?」と誰に問いかけるでもなく赤。 「捨てられたかな。」とやや面白そうに黄。 「それはないだろう。」 青が黄の無情な意見を切り捨てた。 しばらくの間、誰も何もいえなくて、沈黙が続いた。 「…………黄緑はアヤのポケットの中だ。」 黒がぼそりと言った。その声は小さなものだったけれど、皆には伝わった。 「ママにしかられると思ったんじゃないかな、アヤちゃんは。」 推測を述べる緑に、赤と黄がそうかも、と頷いた。 「アヤの母親は目ざといからな、いずれ黄緑も帰ってくるだろう。」と白。 それを黄がちゃかした。 「真ん中がセロテープでぐるぐるだったりして。」 綾の母親は、家に帰ってきた綾からカバンを受け取ると、念のため、と玄関先で中身をあらためた。 もうそれは日常の習慣となっており、綾は母親の様子に何も感じることなくリビングに向かった。 今日はちょっとだけ、綾にとって気がかりなことがあったのだけれど。 クレヨンの箱の蓋を開けたとき、母親は何かが足りないことに気付き、首をかしげた。 よく見てみると黄緑色のクレヨンが無い。 この春に買い与えたクレヨンを、娘はもう紛失してしまったのだろうか。 「綾ー?ちょっといらっしゃーい。」 テーブルの上に用意されていたお菓子を頬張っていた綾は、その声にびくりと身をすくませると、そろりそろりと足を玄関へと向けた。 「なあに、ママ。」 「黄緑色のクレヨン、ないんだけど、どうしたのかな?」 穏やかに問いかけてくる母親に、綾は答えることができなくて、スカートのポケットにいれた手をきゅっと握り締めた。 手のひらの中には、二つに折れたクレヨン。 母親は、きっと娘がクレヨンを折ってしまったのだろうと予測していた。 折れたクレヨンを、怒られることを恐れた娘がポケットに隠したことも。 「怒らないから、出してちょうだい。」 「……おこらない?」 「怒らないよ。」 「ほんとうに?」 「本当に本当。ゆびきりげんまん、する?」 絶対!と保障する母親に、その言葉を信じた綾は、ポケットから手を出した。 「…………きみどり、おれちゃったの。」 その小さな手にのっていたものは、真ん中で二つに折れた黄緑色のクレヨン。 母親はふふっと笑うと、 「大丈夫よ、またちゃんと使えるようになるわ。」 といって、立ち上がり綾の手をひいてリビングへと向かった。 綾は母親のあとをついて歩きながら、怒られなくて良かったと、安堵の息をもらした。 リビングで、母親は黄緑色のクレヨンにぐるぐるとセロテープを巻きつけながら言った。 「ねぇ綾。私立の小学校を受験する気はない?」 「しりつのしょうがっこう?じゅけん?」 きょとんとして訊ね返す綾に、母親は綾にも分かるように説明してやった。 パンフレットを片手に、熱い口調で私立の良さを語る。 「にゅうがくてすと……、てすとがあるの?」 「そうよ。きっと綾のためになると思うの。だから、頑張ってみない?」 「うーん……」 綾は突然の話に難色を示すが、母親は乗り気のようで、頑張れるわよね?と念を押すと、これで決まりだというような顔で綾にテープでぐるぐる巻きのクレヨンを渡すと、うきうきした足取りでキッチンへと入っていった。 リビングで残された綾は、てすときらいなのにな、と独りごちて、クレヨンを箱の中に入れると、再びお菓子に手を伸ばした。 「はははは、本当にぐるぐる巻きだ。」 生還した黄緑を迎えたのは、赤の嘲笑だった。 「好きでなったんじゃねぇよ。」 黄緑は僅かにむっとして、赤を睨みつけた。 「そりゃあそうだろうけどねぇ。」と笑いを絶えながら黄。 機嫌の悪い黄緑を煽るようにはやし立てる黄を牽制しながら、緑は黄緑に話しかけた。 「大変だったね、黄緑。」 「大変でしたよ、マジで。」 結構これって痛いんですね、と黄緑は苦笑した。 セロテープの感触が気持ち悪いらしく、もじもじと落ち着かない黄緑に、緑は破顔した。 「・・・笑わないで下さいよ、緑サンまで。」 何故か緑には頭が上がらないらしい黄緑は、丁寧語で言葉を返す。 「珍しく長い間外に出てたんだ、何か面白いこと、見なかった?」 と赤が訊ねると、黄緑は少し考えるそぶりを見せて、話し出した。 「そーいやあ、なんかアヤが私立の小学校を受けるというような話をしてたような。」 「私立の小学校?」と黄が問い返す。 「あぁ、母親が懇切丁寧に説明してたぜ、設備がどうとか進学がどうとかって。」 「お受験ってやつだねぇ。」と緑。 「そうッスね、多分。けどアヤはその説明の半分も理解できてねぇと思うけどな。」 「で、アヤはなんて答えたんだ?」と青。 「はっきり答えてはねぇけど……、嫌そうだったぜ。」 黄緑が話し終わると、白が突然に声をあげた。 「よし、今日のお題は『世の中の理不尽さについて』だ。皆の活発な意見を期待する。」 「な、何だよ突然……。」と赤。 けれど白の有無を言わせない態度に怯んだのか、声色は弱めだ。 「理不尽……、緑せんせぇ?『理不尽』って何ですかぁ?」とふざけて黄。 「物事のすじみちが通らないこと、だよ。」と緑が黄に説明する。 黄はふーん、と頷くと、ぱっと顔を輝かせ、言った。 「じゃあ、アヤちゃんのお受験も理不尽じゃん。」 「なんでさ。」と赤。 「だってアヤちゃん嫌がってんでしょ?なら理不尽だよ。」 言い返す黄に、黄緑が同調した。 「そうだよな、嫌なのに無理やりやらせるのは問題あると思うぜ。」 「アヤちゃんの意思を全く無視してるよね、アヤちゃんの母親は。」と緑。 青がそこで首を傾げた。 「アヤの母親はアヤのためを思って私立の小学校をすすめたんじゃないのか?」 「そうだよ、そうなんじゃないの?」と赤。 その様子を見て黄が素っ頓狂な声を上げた。 「なにさ赤と青。珍しく意見が食い違わないじゃん?」 白が討論会を開くたびに赤と青の意見はいつも正反対で。 持論を展開するうちに熱くなる彼らを止めるのが普通だったというのに。 「たまにはそんなこともあるだろう。」と青。 緑がくすりと笑ってそれに応じた。 「明日、地震が来るかもね。」 「おいおい、当初の議題からずれてないか?」 白がそう問いかけると、黄がこくりと頷いた。 「ずれてるずれてる。」 「アヤの受験の話だったんだろ?」と黄緑。 「そうだ。」と青。 赤が口火を切った。 「もしさ、今アヤが頑張って私立の小学校受けて受かったんなら、それはそれで良いことだと思うけど。だってそうすれば良い環境で勉強できるんだろ?」 「そうだけどさ、アヤが嫌ならダメだよ。」 黄が反論した。 「アヤの気持ちが一番大事だよ。」 「何も分かっていない子供に選択させるのか?子供の一時の感情だけで?」と青。 「受験したほうがアヤにとっては良いよ。将来に役立つじゃないか。」と赤。 一気に二人から攻められて、黄はたじろいだ。 まれに見る赤と青の連合軍は、意外と強力なようだ。 「・・・それはどうなんだろうな。」 黙り込んでしまった黄に代わり、白が口を開いた。 「将来的なものを考えれば私立小学校受験は決して悪いものではない。もしもエスカレーター式の学校を選ぶのなら大学まで進路の心配はしなくても良いし、高度な知識が身に付くだろう。小学校のときから公立の小学校とは違う授業を受けるのだから。」 毎度のことながらの白の独り言に、皆は差し挟める言葉を見つけられなくて、ただそれを見ているだけに終わる。 以前、この状態の白に赤が反論したのだが、妙な理屈でやり込められて散々な思いをしたことがあるのだ。 過去の教訓は生かすに限る。この状態の白は放っておくに限る。 「けれど今それをさせる意義があるのか?多感な幼児期の貴重な時間を、小学校の入試のための勉強に費やさせるだけの意義が、私立の小学校にはありうるのか?こんなにも小さいときから勉強をさせ、視界を狭くしてしまうより、のびのびと自由に遊ばせて多くのものを見せたほうが良いのではないだろうか?いや、きっとそちらのほうが良いに決まっている。」 白の独壇場は続く。 黄が黒をちらりと見た。 早くこれを止めてくれ、という嘆願をこめて。 「だがその将来性は魅力だ。きっとアヤが将来良い生活を送ることができうるだけの知識をその私立の小学校は与えてくれるだろう。けれど良い生活というものはそもそも何なんだ?ただ一流大学を卒業して一流企業に就職して高給取りになることだけが良いというわけでもないのだろう。他にも多くの道はあるだろうから。けれどその道はどうやって拓けるものなのだ?」 黄が急かすようにじっと黒を見つめた。 黒はそんな黄を一瞥すると、重い腰をようやく上げた。 「白。皆がうんざりしている、考えるのは頭の中だけでやれ。」 まさに鶴の一声といったところか。途端に白の声がやみ、沈黙がおりてきた。 白は黒に言われたとおりに頭の中で考えているのか、一言もしゃべらない。 うろたえた黄緑がおずおずと口を開く。 「受験がどうとか、俺よくわかんねぇんだけどさ。頑張ることは悪くないと思うぜ?」 「それはそうだよね。」と緑。 頑張ることは悪くない。当たり前の意見だ。 でもその目標が、望むものであるのか否かが問題なのだ。 「でも、沢山勉強して、頭が良くなれば、選択の幅……っていうのかな、そういうのが広くなるんじゃないかな。」 緑は結論を探しながら、言葉を選んで話し続けた。 「いろんなことをできるようにして、そのなかから好きなものを選べばいい。それだけのことだよ、結局。」 うん、と緑は、自分で自分に納得した。 「今回は理不尽というものとはかけはなれた結論が出たな。」と白。 「そうかなぁ?」 黄が疑問を投げた。 「僕達が頭を絞ってアヤちゃんのこと考えてるのに、アヤちゃんはおいしそうにお菓子食べてるんだよ?これってなんとなく理不尽……。」 赤と黄緑が声に出して笑って、緑が微笑んだ。 そして、「そんなものなのだろうな。」と青が呟いた。 それを最後に笑い声が途絶え、沈黙が訪れた。 |