死神キューピッドの恋 私には好きな人がいる。 ものすごくものすごく、心の底から大好きな人。 彼の仕草ひとつひとつに私は見惚れ、彼の言葉ひとつひとつに胸を苦しめられ、彼という存在がそこに在るだけで私の視界には光があふれるかのようだった。 だけど私は弱虫だった。 ひどく臆病だった。 私は、彼を遠くから眺めることしかできない女だった。 いくら自分と同年代の娘たちが彼の周りで彼と話してふざけて楽しげに笑っていたとしても、そしてその輪に加わることがどんなに簡単なものであったとしても、私にはその勇気がでなかった。 彼に話しかけることなんて、私には逆立ちしたって無理な話だった。まず私は逆立ちすらできないのだから、それが万が一事実だったとしても、どっちにしろ不可能な話だった。 その日の夜も、いつもの帰り道だった。 彼と今日も話すことができなかった、という自責の念をかみ締めながらひとり帰る、いつもの夜。 「あぅーもう……、話したいよぅ―――」 無意識につぶやく独り言だってお馴染みのものだ。真っ暗な住宅街のなか、誰かに聞きとがめられる心配などしていない。だって誰もいないのだから。 そう思っていた。その声を、聞くまでは。 「だったらボクとおしゃべりしようよ★」 しんとした住宅街に響いた声に、私は背筋を凍らせ歩みを止める。 「……だ、れ?」 背筋の零度が伝わったかのように、声すら震える。 びりびりと感じる、なんていう圧倒的な存在感だろうか。気配を肌で読み取ることができるほどの強いそれ。 その声も気配も、すべては背後から。 「誰、と聞かれても名前は言えないな◆でも君の事はよく知ってるんだ」 後ろにいるのは何なんだろうか。ストーカー?変質者?それとも私の独り言を聞きつけた、ただの通行人? そんなことは、ない。 そんなどこにでもいるようなありふれた人間がこんな存在感、空気すら変えてしまうかのような気配、禍々しいほどのオーラを放てるわけはないのだから。 「あなた……、何なの、こんな」 こんな強い人間がいるだなんて、言いかけた言葉は途中で立ち消えた。唇がわななく、圧倒されているのだ。声として出した息は音を形成せずにかすれてひゅう、と空しく鳴った。 「何なの、か★そうだね、」 後ろの存在はいったん言葉を切った。 継いだ言葉に、私は今までの緊張をすべて忘れて脱力することになる。 「恋のキューピッド、かな♪」 「………………はぁ???」 恋のキューピッドを自称する彼は、呆然とした私を抱えあげると、漫画かアニメかSFかのように重力を無視して一般家屋の屋根の上に飛び上がった。 ひゅん、という音が耳元でよぎって、私を包む空気の温度が下がった。彼は、私を抱きかかえたまま屋根のてっぺんに音もなく着地する。 生まれて初めてお姫様抱っこをされたな、とどうでもいいような思考が頭に浮かんだとたん、顔が火を噴くかのように熱くなった。 ああ、これがお姫様抱っこなんだな、と冷静に俯瞰している私をばしばしと叩きながら赤面した私があからさまにも過ぎる恥ずかしさを隠そうとやっきになってわたわたしているような気分だ。 「なに真っ赤になってるんだい★」 恋のキューピッドを自称する彼はにやにやしながら私を見下ろす。 「もしかして照れてるのかい?カワイイねぇ♪」 からかいの調子を含んだ声に艶色を感じて彼の顔を見上げると、嬉しそうにひそめられた細目とばっちり目が合い、ぞわりと背筋を寒気が下った。 なんだろうこの感じは。ひどく、気持ちが悪い。ねっとりと絡みつかれたようなそんな感触。 「さて……君の恋するカレのところへ行かないとね◆」 悪いけどちょっと揺れるよ、と付け足された言葉に私は顔色を変える。 きっとあの人はびっくりするだろう、あの人はきっと私のことなんて知らないのに、恋のキューピッドと名乗る変な人にお姫様抱っこされて登場した女なんていう第一印象を与えるなんて真っ平ごめんだ。 だけど、ひょいひょいと家と家の隙間を飛び越え屋根を乗り越え、明らかに彼の家に向かっているのだろう恋のキューピッドの勢いを止めることなんて、私にはできやしない。 私というお荷物をかかえていながらも軽やかな足運びには、迷いも躊躇いもよどみもないのだから。 私は早々と諦めの念を受け入れてしまった自分自身に、はぁ、とため息をついた。 私があの人を視界に見とめたとき、あの人はちょうど自宅の門を開けてその中に身体を滑り込ませようとしていたところだった。 ちょうど学校を出て家に帰り着いたところだったらしい。偶然にしてはできすぎているその展開に、恋のキューピッドを名乗る男は満足だとでもいうかのように唇の端を吊り上げた。 「ねぇ、君★」 門に手をかけた姿勢で彼はぴくりと動きを止めた。恋のキューピッドはその彼の背後に音なく降り立つ。 私を、抱きかかえたまま。 私はどきどきする胸の鼓動を気付かれたくなくて胸をおさえた。憧れの彼の背中が、目の前にある。こんなに近づいたことはなかったように思う、手を伸ばせば届きそうな、こんなにも近い、距離。 彼はおずおずと振り返った。突然夜中に背後から声をかけられるという不審感は先刻私も感じたので、彼の今の気持ちはよく分かる。 振り返った彼の顔には予想通り訝しげな色が濃く表れていて。その瞳が私を捉えたとき、一瞬見開かれたのに気付いて、私の心臓は一段と跳ね上がりかぁっと頬が火照った。夜風が熱を奪うスピードと、私が赤くなるスピード、どちらが速いのだろうか。夜風が勝ってくれたらいいと思う。こんなにも火照る頬を、恨めしく思う。 ああ……、本当に、本当に恥ずかしい。 「君が憧れのカレだね◆さぁ、恥ずかしがってないで気持ちを伝えたらどうなんだい★」 恋のキューピッドはにやにや笑いながら私を促した。 伝えたらどうなんだい、と軽く言われてしまったが……、伝えたらどうなんだい、って。私の頭の中でその言葉がぐるぐると回りだす。 ―――そんな、そんな強引な……!!! 私は一気に冷静さを失ってヒートアップする。困惑する、混乱する。 「な、……な、なんで…なんでそんな」 私がショート寸前なのに気付いてか気付かずか、恋のキューピッドを自称する男はこくりと首をかしげた。 「ああ、緊張しちゃってるんだね★」 カワイイなぁ、とついでに呟かれた言葉は体よく無視することにした。 そのままの膠着状態が何瞬か続き、ショート寸前の私を尻目にいちはやく冷静さを取り戻したのは、夜中に突然呼び止められた彼だった。 「……何なんですかあなた方。警察を呼びますよ?」 その言葉に私はぴしりと固まる。どうしよう。変な人に見られた。憧れの、大好きな彼に。 「こんな夜中に、本当に何なんですか。嫌がらせですか。通りすがりのいたずらですか」 ちがう、違うの、私はそんな女じゃない。どうして。この気持ちを伝えたくて、ただそれだけで。 「本当に警察を呼びますよ。こんな夜中に悪質ないたずらの相手なんて、」 「違うっ!」 してられませんから、と続くはずだった彼の言葉を遮って、思わず、叫んでいた。 その私の鬼気迫る様子に気付いたのかただ単に驚いただけなのか、彼の言葉はとまる。 「違うの……、ただ、私、伝えたくて…」 私も自分が出した思いもかけない大声にびっくりして、でも勢いはとまらず、いくらか尻すぼみになりながらもなんとか言葉を紡ぐ。 急に頭がすっと冷えてきた。私はいまだに自称恋のキューピッド男にお姫様抱っこされたままだったのを思い出し、確かにこれでは不審者に思われても仕方がない、と納得する。 夜中に背後から声をかけられて振り返ったら、そこには知らない男にお姫様抱っこされて真っ赤になっている女の子。ああ、なんていうか、最悪なほどに不審だ。 恋のキューピッドを見上げて、目で降ろしてくれと訴える。その意図はうまく伝わったようで、彼は優しくふわりと私が地面に降り立てるように腰をかがめて降ろしてくれた。 そして私は愛している彼、大好きな彼に向き直る。 彼はおとなしく、というかあっけに取られて私を見つめていた。そんなにも見られていることに気恥ずかしさを感じ、体温がまた上がったような感覚にとらわれたけれど、こほんと軽く咳払いをしてそれを誤魔化す。 「あの……たぶん私のこと知らないと思うし、こんな風に現れて何この女って感じだと思うけど…」 私は一旦言葉を切って、下を向いて、顔を上げて彼をまっすぐに見つめて、一瞬の逡巡ののちに再び口を開いて、 「私、あなたのことが好きです」 彼が動揺したのが私に伝わってきた。ああ、彼の戸惑いが痛いほどに伝わってくるのに。私の気持ちは、伝わったのだろうか。 「それだけ、伝えたくて……」 そこまで一気に喋ると、頭の上にぽんっと手を置かれた。そのままぐりぐりと、いいこいいこされる。振り返るとそこには恋のキューピッドを名乗る男の笑顔。 「よく言えたねぇ★うん、がんばったがんばった」 頭を撫でる手は意外にも心地よくて、私は安堵の息を吐いた。 「さぁ、君の番だ◆答えを聞かせてもらおうか」 自称恋のキューピッドは、私から視点をずらすとそう言って彼を見据えた。 彼は明らかに取り乱している。混乱している気配がありありとうかがえる。 告白したのは私なのに、答えを悠々とした顔で待っているのは恋のキューピッド。私は、答えを聞くことに対する期待と拒絶される恐怖がまぜこぜになった心持ちで、呼吸をすることを忘れないようにするだけで精一杯だった。彼の顔など見れたものじゃない。私はずっと彼に背を向けたまま恋のキューピッドの顔を見つめていた。 そのままの状態で、何分過ぎただろうか。混乱する少年は、短く口を開いた。 「……ごめん、俺、好きな人いるから」 私は目を伏せて、奥歯をかみ締め唇を引き締めた。 それは、予想できた答えだった。分かっていた答えだった。 それが嘘だとも知っていた。 彼は、人気者なのだ。彼に憧れ、そして告白して散っていった女の子の話は何人も聞いていた。言われた理由は皆同じ、「好きな人がいるから」。 男の子にしてみたら楽な断り方なのだろう。気持ちを伝えてくれた女の子を、できるだけ傷つけまいとした中途半端ないたわりといつわりの言葉。 この人は、何人の女の子にこの言葉を告げて、何人目の女の子に嘘じゃない言葉を告げて、何人目の女の子と付き合うようになるのだろうか。 恋のキューピッドを名乗る男は、私の思考を読もうとするかのように私の瞳を覗き込んだ。瞳に宿る混沌とした色に、彼は気付いたろうか。 「……嘘はいけないねぇ、君◆」 キューピッドは口を開いた。 うつむくように顔を隠した私の後ろで、彼がびくりと身体をこわばらせた。 キューピッドの様子が、空気が、私と最初に出会ったときのものに変質していたのに気付いたのは、私の全身に熱いなにかが後ろから降りかかってきたのを認識してからだった。 「な……、なに?」 「ああ、振り返らないほうがイイよ★」 熱いものは止むことを知らず次々と降りかかる。尽きることを知らぬかのように。 街灯の光に、熱いものに濡れた手を透かしてみて初めて、私はその色に気付いた。 それは、安っぽいライトの下で、てらてらと赤く、赤く光っていた。 息を飲んだ私に、死神に成った恋のキューピッドはにやにやと笑ったまま告げた。 「死んじゃったよ、彼◆」 私は、何も言えず、ただ死神の顔だけを見つめていた。 「手に入らない玩具なんて、いらないよねぇ★」 そして死神は、大好きな彼の血にまみれて赤くなった私を見下ろして、「うん、綺麗だ♪」と一人頷く。 死神は私をここに連れてきたときのようにお姫様抱っこして抱えあげると、再び屋根の上に飛び乗った。 「君には興味が湧いたよ★ボクと一緒に、来るよね?」 断定的な問いかけに、私はそれを否定する言葉を持っていない。 だって彼は、迷いも躊躇いもよどみもない軽やかな足運びで、私を抱えたまま屋根を越えて夜の闇に消えていくのだから。 そこには、私が愛した彼の無残な亡骸だけが残された。 |