序章 〜混ざりものの世界へようこそ!〜 「君は、自分が誰かに創られた存在だと思ったことはないかな?」 男は男に言った。口元をにやりと歪めて。 その言葉を受け取った男は、少し戸惑ったように 「もちろん、俺は両親がいたから生まれてくることができたのだと思っている」 と返す。 問いかけた男はその返答に軽く手を振り、答えた男の訝しげな視線を振り払うと、 「君が自分自身で作り上げたと思っている自らの性格、思考、立場、そういうもの全てが、誰かに創られたものだと思ったことはないかな?」 と問い直す。 問いかけられた男は憤慨したかのように眉をひそめると、 「俺は俺であり俺以外の何者でもない。俺という人間は俺が在ることによって成り立つものだ」 と当然のことを言うかのように堂々と述べた。 最初に喋ってから疑問文しか用いていない男は、見に纏ったぱりっとした黒いスーツの隠しから一冊の文庫本を取り出すと、依然と眉をひそめたままの男に差し出す。 「これは?」 目の前の本を眺めて男が問うと、男は差し出したままの姿勢でにやにやと笑い 「まぁ読んでごらんよ」 と本を手に取ることを男に促した。 男はひそめられた眉間の皺を深くして本を受け取る。 そして何気なくぱらりと適当にページをめくった。 はらはらとめくられ、暴かれていく本は抵抗を見せない。しかしそれを読む男の顔は徐々に強張り、額にはうっすらと汗が浮かんできた。まるでその本に、男を酷く動揺させることが書かれているかのように。 そしてそれは事実なのだろう。 いつしか焦ったようにページをめくり始める男を眺めていた男は、にやにや笑いを崩さぬまま口を開く。 「203ページを見てみなよ」 言われるままに男はページを探す。 「今の台詞が、載ってるからさ」 203ページを探し当てた指が震えた。唇をわななかせ、目を見開いて男は声にならない叫び声をあげる。 そう、男はまさに今、この文章を読んでいるのだ。 「…………っぁ、」 息をするのも難しくなるほどに、男は驚愕の色に染まっていた。 「君は、本のなかの登場人物だ。君が自分自身で作りあげたと思っている君という人間は、その本の作者である誰かが創りだした偶像にすぎない」 にやにやと笑い続ける男は、まるで本を音読するかのごとく滔々と朗々とよどみなく言葉を紡ぐ。 その声が耳に入っているのかいないのか、指の震えがいつのまにか全身をがくがく揺らすまでに至った男は、その手からすとんと本を取り落とす。 鈍い音をたてて床にぶつかりぱたりと表紙を閉じた本を見つめて、男は最初に投げかけた問いを繰り返す。 「君は、自分が誰かに創られた存在だと思ったことはないかな?」 対する男は最初にその問いに答えたときの余裕が根刮ぎ奪われてしまったのか、がたがたと震える手のひらをただ呆然と見ているのみだった。 焦点のあわないその視線は、両の掌紋に向けられている。 その紋様は一生不変で、同じものを持つものは二人とおらず、網膜や歯並びと並んで身体の個人性を確立するもの。 しかしそれでさえ、一個の人間であることの証であるその紋様でさえ、自分自身ではない誰かによって創られたものだったとしたら。 「……っぁぁああああ!」 男は慟哭した。 自我を失ったことによる果てなき絶望に。 「ああああああ!!」 無知ゆえの幸せを奪われたことによる限りなき憎悪に。 「ああああああああああああ!!!」 今まで信じてきた己の空虚さを自覚したことによる尽きぬ悲嘆に。 止まることを知らない男の絶叫が聞こえないかのように男は平然と笑い、 「さあ、君が在るべき場所に、還ろうか」 と男に最期を告げる。 床に落ちた本が見えない手によって開かれ、203ページを男の声に曝す。 途端、叫び続ける男は足を見えない手に掴まれページの中へ引きずられ飲みこまれていく。 まばたき一回分の時間の後、そこには床に落ちた一冊の本と、魂の断末魔の慟哭の余韻のみが残されていた。 |